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2010/06/24

イケイケ☆バナバナ[34]

19日(土)は月イチのいけばなのお稽古日でした。

ヒマワリ、オレンジ色のケイトウ、カンガルーポー(枝もの)、ニューサイラン(葉もの)の4種だったので、今回は「盛花(もりばな)」(という様式)にしよ (^-^)

と言ってはみたものの、えーっと、盛花ってどーやって生けるんだったっけ・・・? (^^;

先生(中学からの友人)に呆れられながらも、風の吹くまま気の向くまま、思ったよーに生けてみたらこんな感じになりました!

今回は先生の手直しなし! ( ̄ー ̄)v
いけばなってメンタル面がモロに出るから、なんか嬉しい♪

先輩Oさんは、ケイトウを使わずに「生花(しょうか)」(3種しか使えない)で生けてました。

さすが!
毎回思わず見とれてしまう出来です。
こんなふうに生けられるようになりたいな~♪

こちらは、ナースももちゃん(仮名)の作品。
こういう自由な生け方はももちゃん(仮名)らしい(笑)。

Sさんの作品。
先生に少し手直ししてもらってましたが、段々イイ感じに生けられるようになってきたみたいです (^-^)

他の盛花の作品とは違って、ヒマワリを短くまとめたSTさんの作品。
同じ花材を使ってても、それぞれ違ってて素敵ですね (^-^)

前回同様、今回も先生のお顔に施術したかったんですが、先生のお子(幼稚園児)が「公園行きたい!」ってグズり始めたんで、今回は断念・・・
先生も残念がってました。
来月は期末試験前で多分参加できないから、次回は8月かな?
また機会があったらぜひ~♪

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2010/06/23

久々お江戸オフ

6月6日(日)は『第22回お江戸オフ』にお邪魔させて頂きました (^-^)
皆さんにお会いするのは、去年 私が学校に入る前の3月に行われた『第14回お江戸オフ お花見の巻』以来です!

今回は、Tompeiさん桜桃さんぶんぶんさんTOKIKOさん、ゆれいさん、陶片木さんとご一緒させて頂きました。

JR南千住駅に集合なので、常磐線初乗車☆
知らない路線に乗るのって ゚+.(・∀・)゚+.゚ ワクテカ♪
久しぶりの鉄分補給(笑)

南千住駅を出ると、ここいらへんの町内のお祭らしく、おみこしが出てました。
おみこしって神さまの乗り物だから、神さまに遭遇しちゃったってことだよね?
ラッキーかも☆

とワクワク気分で、まずは回向院(えこういん)へ。
いつもコースやお店決めなどをTompeiさんや桜桃さんにお任せして、連れて行ってもらっているだけなので、今回も何の下調べもせず、「どこに連れてってもらえるのかしら?」なんて他力本願な感じだったんですが(こんなヤツですみません・・・)、ここって・・・(滝汗;

近くにあった「あらかわの史跡・文化財」ってゆー看板によると、

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回向院

 回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安静の大獄により刑死した橋本左内・松田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に経ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。
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とのこと。

そして、すぐお隣にある延命寺は小塚原刑場跡・・・ (´Д`;)ぁぅぁぅ
ってなワケで、写真は割愛させて頂きます。

え、えーっと、次は浄閑寺(じょうかんじ)ね。
お、また「あらかわの史跡・文化財」の看板があった。
なになに?

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投込寺(浄閑寺)

 浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺(なげこみでら)」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
(以下、省略)
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そんな悲しい歴史のあったところなんですね~・・・
またしても写真割愛。
でも、これもお江戸の歴史の一部ですものね。
こういう機会でもなければ一生来ないかもしれません。
連れてきて頂けてありがたいです。 (-人-)

お次は永久寺(目黄不動)。
こちらは写真ありです (^^;

目黒と目白は現在でもあって駅名にもなってますね。
昔は目赤・目青・目黄もあった と聞いたことはありますが、こうしてお不動様として残ってるんですね~
詳しくはWikipediaの「五色不動」をご覧になって頂ければよろしいかと。 (←手抜きw
「五色とは密教の陰陽五行説由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。」だって。
そーいえば、東洋医学概論の授業で陰陽五行説(NOT「おんみょう」、この場合は「いんよう」です)やったとき、五方(東・南・中央・西・北)やったな~ (^^;

このあと、世界的に有名な某ハンバーガーチェーン店(笑)で一休み (^。^;)
一同、重~い空気を背負ってしまったのでここで浄霊を・・・ってゆーのはジョーダンで、皆さんにあん摩の練習台になって頂きました (^人^)多謝!!
首・肩・肩甲骨まわりを軽く揉ませて頂いたんですが、皆さんに喜んで頂けてヨカッタです♪
機会があれば、例のお顔の指圧なんかもぜひ!(笑)

一休みしたあとは、公春院へ。

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公春院の松

 公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約四メートル、高さ十四メートル、樹齢は優に五百年を越すものであったといわれる。
『遊歴雑記』(文政十二(1829)年)にも、東武三十六名松の一つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当時の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院でないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。
(以下、省略)
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えーっと・・・松はいずこ?
「あったといわれる。」って書いてあるから、今はもうないのかな?

お次は真正寺。

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真正寺門前町

 寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。
(以下、省略)
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チト成金趣味っぽい(すみません・・・)金ぴかの観音様が目印の円通寺。

このあたりからくっきもさんが合流されました。

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彰義隊士(しょうぎたいし)の墓

 慶応四年(1868)五月、寛永寺に終結した彰義隊は新政府との激戦の末、上の野山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎ととも遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。
(以下、省略)
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こちらがその「旧上野の黒門」。
荒川区指定文化財だそーです。

砲弾の痕が生々しいですね・・・

ちょいと歩くと近くの神社でお祭が。
素盞雄(すさのお)神社で「天王祭」が行われていました。
南千住の駅前で見たおみこしはこのお祭のだったんですね (^-^)
こじんまりとした境内にはたくさんの屋台が出ていて、かなりの人出でした。


予定していたよりも時間があるとのことで、「荒川ふるさと文化館」に立ち寄りました。
館内に再現されていた『Always』ちっくな昭和の町内がイイ感じでした (^-^)

お次はこちら。

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熊野神社

 創建は永承五年(1050)、源義家の勧請によると伝えられる。
(以下、省略)
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こぢんまりとした木の社なんですが、逆光で何だか神々しい感じに(笑)。

千住大橋 を渡って、南千住から北千住へ。

大橋から下を除くと、何やら一句詠んであって、その横に芭蕉さんらしき絵が描かれています。

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おくのほそ道 旅立ちの地

千じゅと云所にて
船をあがれば、前途三千里の
おもひ胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそヽく
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絵の横には、与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」と書かれていました。

大橋のたもとの大橋公園にちょこっと寄ったあと、橋戸稲荷へ。

お稲荷さんなので、狛犬ではなくお狐さんなんですが、躍動感のあるお狐さんでした。

この日、唯一見かけたぬこ(猫)さん。
日向ぼっこ中ですのニャ。

「千住宿歴史プチテラス」敷地内にあった芭蕉さんの石像とご対面。

そばにあった木の看板にはこんなことが書かれていましたよ (^-^)

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平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり 当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。
千住は奥の細道への旅立ちの地であり 矢立初の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」の句が残されています。
此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり 明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。
芭蕉像に到る足下の敷石はやっちゃ場のセリ場に敷かれていた御影石です。
もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷石があるかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻き立てます。
人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。
奥街道を旅することで何かを感じるものがあるかも知れません。
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残念ながら、ゆれいさんと陶片木さんと私はここでお先に失礼することに。
久しぶりに皆さんにお会いできて、たくさん歩けてヨカッタです♪
また遊んで下さいね (^-^)

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